「てんば」のある世界

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 先日、友人から金沢旅行に行ったとの報告を受けて、大変うらやましく思いました。金沢いいですよね。おいしい海の幸、金沢城兼六園、茶屋街、美術館、その他もろもろ。私は、父が金沢出身ということで、金沢にかなり縁があります。最近はめっきり行けていませんが、少し前までは毎年お盆と正月に、金沢へ家族で帰省していました。ちなみに、私の本籍は石川県白山市にあります。

 そんな私の好物の一つに、「てんば」というものがあります。これはてんば菜と呼ばれる野菜を白だしに浸したようなもので、白だしの甘みとてんば菜のほのかな苦みが白米にたいへん合う代物です。

 しかし、そのてんば菜を作ってくれる方もたいへん少なくなってしまったようで、私が中学に上がったころあたりから、帰省して金沢でてんばにありつこうとするたびに「今年が最後かもしれん」と言われるようになりました。好きなものが無くなるってこんな寂しい気持ちになるんだなぁと子供ながらにしみじみと感じたものです。近鉄ファンはこんな気持ちだったんですかね。

 そんな私を見て不憫に思ったのか、父が試行錯誤してその辺で売ってる菜の花で似たようなものを作ってくれました。それを私は、「美味しい、これ『てんば』だよ」と言ってぱくぱくと食べました。

 実際、それはてんばではありませんでした。正直苦みが強すぎて、まぁ少し似てるかも?くらいでした(だとしても、あそこまでしてくれた父には感謝です)。しかし、当時の私はその違和感にどこか気づきながらもそれを「てんば」だと思って白米をおかわりしていました。

 私はきっと、「てんば」をてんばであると自分に言い聞かせて、自分を大好きなてんばのある世界に住まわせてやりたかったのだと思います。まぁ父への配慮という面もあったでしょうが。無いものを恋しがるよりも、自分を少し騙して、あるように装うほうが、自分にとって幸せだと判断したのだと思います。

 みなさんにもありませんか?手に入らないものの「代わり」を無意識に立ててしまうときが。本当は「代わり」なんてあるはずもないのに、似たようなものをそれだと思い込むようにして、自分に救いを与えようとするときが。そして「代わり」と向き合うときはいつもその奥に本当に求めているものが見えて、言葉にしがたい自分への嫌悪感を持つときが。私たちはそうやって常に、自分に都合がいいように自分を騙しているように思えます。そんなこと、本当は気づいているのになるべく意識しないようにしながら。

 先々月、実家に帰ったときに、「これが本当に最後のてんばらしい」と言われててんばを出されました。とてもおいしかったです(小並感)。私は今、「てんば」のある世界を生きています。