志向型透明人間

 初めましての方は初めまして。そうでない方はこんちゃ。コムです。

 私は今このブログ記事を、京都へ向かう深夜バスに揺られながら書いています。深夜バスってやることないですね。そこそこの頻度でガッタンガッタンするし、そもそも居心地悪いし。音楽でも聴きながら気を紛らわせるしかないのですが、私のお気に入りのワイヤレスイヤホンが充電切れになってしまって一時的に音楽が聴けないので、気を紛らわせる代替手段として久しぶりにこうして筆を走らせているわけです。

 じゃあイヤホンが復活したら何を聞くんだ、一番好きな曲は何なんだと聞かれたら、恐らく私は東京事変の透明人間だと答えます。また椎名林檎かよと思った方、いますね。そうですまたです。何か悪いか。私はミヤジと林檎さんにこの半年間生かされてきたんだよ。悪いことは言わないから一度聞いてみなさい。

 私が曲を選ぶ基準は主に二つあって、テンポの良さと歌詞の内容なんですが、この透明人間という曲はテンポも良ければ歌詞がこれまた最高なんですね。というわけで、歌詞の布教をしていきたいと思います。

 私が特に好きなのは

「あなたが笑ったり、飛んだり、大きく驚いたとき、透き通る気持ちで、ちゃんと答えたいのさ」

「僕は透明人間さ。本当はそう願ってるだけ」

という部分です。あなたの周りにもいませんかね、自分のルールに則って、自分なりにまっすぐ、誠実に、透明に生きてる人。友人でも、恋人でも、家族でもいいんですけれども。そういう人たちと一緒にいるのは楽しくないですか?私は楽しいです。

 けれど、そういった人たちが「透き通る気持ちで」ありのままに生きてる姿を横で見るというのはなかなかしんどいときもある気もします。そういう、できそうでやっぱりできそうにない生き方を横でされると、常日頃何かやましいことがある私は自身と比較して気後れしてしまいます。まぁもちろん彼らにも本当はなんだかんだやましいことがあるとは思うのですが、隣の芝生はなんとやらというやつです。

 だから、私も彼らの隣にいて、彼らの仲間として振る舞えるように「透き通る気持ちで」いようと思うわけです。たとえ実際はそうではなくて、「願ってるだけ」だとしても、せめてそれを目指す気持ちは持っていたいと思っています。ちゃんと自分が好きな人たちの横で楽しく過ごしていられるように。(実際はプライドが邪魔してうまくいかなかったり、色々やらかしたせいで一部の好きな人から嫌われてしまったりしていますが)

 というわけで、性根(漢字だけ見ると下ネタ)が腐った私でも、曲がりなりにも透明人間を志向することはできるのは、幸福なことに周囲の友人たちに透明人間が多いからだと考えています。といっても、そんな友人たちに感謝を伝える機会も素直さも持ち合わせてはいないので、せめて旅行に行ったときくらいはお土産でも買ってこようかと考えています。(あくまで予定です。また、数には限りがあります)

    素敵な人たちと共に過ごせるように、これからも、志向型透明人間であれるよう努力しようと思います。歌詞の解釈への異論は認めます。駄文錬成終わり!

夜に徒歩る

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 ここ最近は夜風が涼しくて気持ちが良いですね。私は夜に散歩するのが唯一と言っていいほどの趣味で(ツイッターは呼吸なので趣味としてカウントしません)、この1週間ほどはほぼ毎日2〜3時間ほど何のあてもなく近所を彷徨っています。夏休み中は小論文の執筆とブラックバイトのせいでまともに散歩なんてできませんでしたが、それまではずっとこの1週間のような生活を送っていました。

 私の散歩好きは、春休みにある人(以前話題に上がった連れのことではないです)と夜に駒場キャンパスに侵入して(そのときはまだ誰でも入れた)その辺りを散策した日から始まりました。その人が暗闇の中へ走りこんで溶けていって弾んだ声で私を誘ったり、足りない語彙力で月を愛でたり、昼間は喧騒で隠れているような音に耳をすませたり、夜風に身体を投げ出したりしている姿を見て、私は夜が好きになりました。

 夜は私たちをワクワクさせてくれます。夜は光も音も無いようで、私たちに昼には見えない聞こえない世界を示してくれます。

 中でも私が好ましく思うのは月です。月は私たちを照りつけはしませんが、照らしてはくれます。その控えめな優しさや、日々変わる表情に、私はどこか暖かな人間味を感じます。ここ最近は曇りがちであまり顔を覗かせてはくれませんが、気分屋だからね、仕方ないね。

 別に今日の記事は単なる「夜いいわぁ」というだけの独り言なので、まとめ方がわかりません。なのでここで無理やり締めます。駄文錬成終わり!

オシャレって難しい

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 私にはオシャレが好きな連れがいるのですが、その方にこの前、オシャレとは何かということを聞くと、「自分の好きな服着たり自分の好きなメイクしたりすることじゃない?流行り物なんてすぐに消えちゃうんだから」と、ドキュメンタリー番組で主題歌がかかるタイミングで出る名言のような返答をされました。

 確かに、田舎者からしたらオシャレさんが集まるイメージがある街、渋谷を歩いていると、皆様々な格好をしていることがわかります。白いTシャツにジーンズというような極めてシンプルな格好をしている人もいれば、レゲエとかそっちの方面の方ですか?と声をかけたくなるようなカラフルな格好をしている人もいます。私なんかにはこの人たちは全員オシャレに見えてしまって、じゃあオシャレってなんやねんと思考の海に漂流していたので、連れのその一言にはとても感心しました。

 そう考えると、オシャレな人、というのはもしかしたら自分の好きなものをファッションによってきちんと表現できる人のことなのかもしれません。

 好きなものを表現するのって実はとても難しくて(メンタリストポーズ)、まず自分の好きなものというものを明確に把握していないといけない。次に自分の好きなものに近似できるものを持ち合わせていないといけない。そしてそれを身につけて自らと調和させないといけない。これってどれをとってもそうそうできるものではないと思います。でもできたらカッコいいよね(小並感)。

 これってファッションだけじゃなく、思想においても同じことが言えると思うんです(思想というと堅苦しい感じがしますが、ここでは日常における考え方くらいのニュアンスです)。自分の好きな考えや理想を把握し、それに近似できる言葉や行動を持ち合わせ、自分自身と調和させる。こんな生き方をする人ってオシャレだと思いませんか?

 どうやったらオシャレになれるんですかね。とりあえず私は、たくさん本を読んで教養をつければ、自分の好きなものに近似できそうな言葉の候補はたくさん手に入ると思っています。まぁ逆に言えば教養を備えている、つまり、ただ近似できそうな言葉を持っているだけでは宝の持ち腐れだと思っているというわけでもあるんですが。

 オシャレって難しいですね。私もオシャレになりたーい!駄文錬成終わり!

「てんば」のある世界

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 先日、友人から金沢旅行に行ったとの報告を受けて、大変うらやましく思いました。金沢いいですよね。おいしい海の幸、金沢城兼六園、茶屋街、美術館、その他もろもろ。私は、父が金沢出身ということで、金沢にかなり縁があります。最近はめっきり行けていませんが、少し前までは毎年お盆と正月に、金沢へ家族で帰省していました。ちなみに、私の本籍は石川県白山市にあります。

 そんな私の好物の一つに、「てんば」というものがあります。これはてんば菜と呼ばれる野菜を白だしに浸したようなもので、白だしの甘みとてんば菜のほのかな苦みが白米にたいへん合う代物です。

 しかし、そのてんば菜を作ってくれる方もたいへん少なくなってしまったようで、私が中学に上がったころあたりから、帰省して金沢でてんばにありつこうとするたびに「今年が最後かもしれん」と言われるようになりました。好きなものが無くなるってこんな寂しい気持ちになるんだなぁと子供ながらにしみじみと感じたものです。近鉄ファンはこんな気持ちだったんですかね。

 そんな私を見て不憫に思ったのか、父が試行錯誤してその辺で売ってる菜の花で似たようなものを作ってくれました。それを私は、「美味しい、これ『てんば』だよ」と言ってぱくぱくと食べました。

 実際、それはてんばではありませんでした。正直苦みが強すぎて、まぁ少し似てるかも?くらいでした(だとしても、あそこまでしてくれた父には感謝です)。しかし、当時の私はその違和感にどこか気づきながらもそれを「てんば」だと思って白米をおかわりしていました。

 私はきっと、「てんば」をてんばであると自分に言い聞かせて、自分を大好きなてんばのある世界に住まわせてやりたかったのだと思います。まぁ父への配慮という面もあったでしょうが。無いものを恋しがるよりも、自分を少し騙して、あるように装うほうが、自分にとって幸せだと判断したのだと思います。

 みなさんにもありませんか?手に入らないものの「代わり」を無意識に立ててしまうときが。本当は「代わり」なんてあるはずもないのに、似たようなものをそれだと思い込むようにして、自分に救いを与えようとするときが。そして「代わり」と向き合うときはいつもその奥に本当に求めているものが見えて、言葉にしがたい自分への嫌悪感を持つときが。私たちはそうやって常に、自分に都合がいいように自分を騙しているように思えます。そんなこと、本当は気づいているのになるべく意識しないようにしながら。

 先々月、実家に帰ったときに、「これが本当に最後のてんばらしい」と言われててんばを出されました。とてもおいしかったです(小並感)。私は今、「てんば」のある世界を生きています。

きっとこんな歌

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 最近は台風が来たりして天気がぐずついていますね。八月はさっぱりと晴れてうざったらしいほどに暑かったというのに。

 私はそんなよく晴れた八月に、なぜか歌手の椎名林檎さんの「雨傘」という歌をよく聞いていました。この歌は椎名さんがアイドルグループのTOKIOのために作った歌で、私が聞いているのは椎名さんがそれを逆輸入してご自身で英語で歌っているものです。

 とても良い歌で、実際に聞いてみてほしいので細かい説明はしませんが、私的にはこの歌は「自分の感覚と能力に頼って生きろ。周りに傷つけられても流されはするな。そんでどうしようもなくなったら助けに行くから、それまでは自分を見失うな」みたいなことを言っているものだと思っています(もちろん異論は認めます)。私は一人暮らしをこの春から始めて、家族や友人に助けてもらいながら初めて全てを自分で決めるという生活を続けていて、この歌をこんな風に解釈して、勝手に自分への応援歌として聞いていました。

 私がこの歌を聞き始めたのは最近なのですが、この歌って実は私がもっと小さい子供のときにドラマの主題歌かなんかで使われていた歌で、一応聞き覚えはあるんですよ。でも小さいときの自分にはまだよく意味が分からなかったみたいで、お気に入りにはならなかったみたいですね。でも、なんとなくどこかで覚えてはいました。

 今までなに言っているかわからなかった歌の意味が、ふとした拍子にわかるようになるって経験って、結構あると思うんです。ありませんか?嬉しいとき、悲しいとき、疲れたとき、死にたくなったとき、愛しい人が現れたとき、色々な場面で、あーなんかメロディだけ気に入ってて歌詞はよくわかってなかったけど、もしかしたら今の私のこんな感じを言ってる歌なのかも、と納得する。そうして、初対面でないはずの歌と新たな運命の出会いを果たして、そこから先の人生を支えてくれるみたいな。

 大人たちって、なんであんな強いんだろうとずっと疑問に思っていたのですが、最近、今言ったことが一つの答えなのかもと思い始めました。大人たちは今までに色々な体験をしてきて、その中で自分の支えとなってくれる音楽や、美術や、人や、他の何かと出会ってきたから強いんじゃないですかね。逆に言えば、そうやって自分の支えとなるものを増やしていくことが「大人になる」ということなのかもしれません。

 でも、私で言う「雨傘」みたいに、きっとその運命の出会いというのは本当に出会ったその瞬間にできるものではなくて、一度出会って、なんとなく心にとめたまま過ごして、いつかいきなり目の前の道がぱぁっと開けるようにできるものなんじゃないかと思っています。そりゃひとめぼれもあるとは思いますが、君らだってひとめぼれなんてそうないでしょ?何度か遊んでからこいつ親友!とかこいつ恋人!ってなるでしょ?

 だから私は少しでも多くのものといつか運命の出会いができるように、なるべく多くのものと出会って、切り捨てずに生きていこうと考えてます。たとえよくわからないものでも、こうして過ごしているうちに、「きっとこんな歌」と自分なりに納得できるときが来て、それが私の大きな力になってくれるかも知れないので。

 最近はいきなり雨が降ることが多いですね。みなさん、傘をお忘れなきよう。駄文錬成終わり!

三途のゲロ

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 昨晩、私は死にかけました。

 大学の同じクラスの友人たちと自宅で食事会をしていたのですが、そこで私は寝ゲロにおぼれかけていたそうです。まぁ吐けたので命は助かったんですが、社会的には死にました。

 家に来ていた三人の友人のうち、一人はすでに数回会っている奴なのですが、あと二人は現実で会うのは初めてで、そんな彼らにゲロ処理をしてもらったのは大変申し訳なく思っております。大学で友人など作れていないという一年生が多い中、こんな良い友人たちに恵まれている自分は幸せ者だとゲロ臭い部屋でひしひしと感じています。

 ツイッターでもたくさんの心配、苦言、忠告、お叱りなどをいただきました。フォロワーの方々にも、ご心配をおかけして本当に申し訳ございません。今度こそ反省します(ある友人に怒られるたびにこう言っている気がしますが、今度こそ本当に反省します)。

 とりあえず私が覚えていることは、

(1)風呂場で全裸で吐いてた

(2)朦朧とする意識の中、友人の一人がBBQで余ったからと言って持ってきた大量のもやしなどはきちんと持ち帰らせた

(3)友人におみやげにコンドームを持たせた

のこの三つです。いろいろとパンチが効いていますね(白目)。

 こんなどうしようもないゲロ畜生ペンギンですが、みなさま、どうかこれからも仲良くしてやってください。お願いします。

笑い声

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 先ほどアップした記事があまりにも手抜き過ぎたので、それをごまかすために春先に私が暇なときに書いた拙いショートストーリーを置いておきます(手抜き)。題名は「笑い声」です。以下本文。

 

笑い声

「ひぃっひっひっひ」

「あひゃひゃひゃひゃひゃ」

「ぎゃははははは」

「ぬははははははは」

 大都会東京の一角、高級住宅街の中にある少し場違いな古い学生アパート。そこの二階に私の部屋はある。家賃は少し高いが相場よりそこそこ広く、網戸が一日一回外れることと、あと一つの問題点を除いては何の文句もない良物件だ。

「あはははは」

 夜になると、下の部屋から時折笑い声が聞こえてくるのだ。しかもけっこうはっきりと。しかし他の音は聞こえないのでいつも、あぁ、何かに笑っているんだなぁと大学生らしからぬ小学生並の感想をもつ。

「ふぁほほほほほほほ」

 とはいっても、実はこれはそこまで大した問題ではない。私は世間で騒音と呼ばれるようなものはそこまで不快に思わないどころか、何かしらの音を聞いていないと不安になってしまう性分だからだ。憤りを覚えるのは、自分で自分を慰めている最中に笑い声が聞こえてきて萎えてしまうときくらいである。

「げへへへへへへ」

 ただ、不快には思わなくても、毎日聞こえてくるのだからさすがにだんだんと気になってくる、というか興味が湧いてくる。笑い声の主である下の部屋の住人は、どんな心境でこんなに笑っているのだろうか。単純に楽しいから?嬉しいから?面白いから?逆に悲しくてしょうがなくて、笑ってでもいないとやってられないから?はたまた何かをキめて頭がハッピーになっているのだろうか。おまわりさんコイツです。

「ぶぉほほほほ」

 そんなことを考え、時折聞こえてくる笑い声をBGMにしながら、私は今日も炊飯の予約をし、テレビを消して、窓を閉めて寝るのであ…じゃないな、洗濯物を取り込むのを忘れていたようだ。あほしね。ベランダに出ようとすると案の定網戸が外れたので舌打ちをして、網戸を直してからカピカピ冷え冷えの洗濯物を回収しようとする。…しかもなんで服がかかってないハンガーがあるんだよ。部屋から溢れる光を頼りにベランダの下を見ると、私のポプテピピックのTシャツのプリントが、こっちに中指を立てているのがわかる。こっちのセリフだF◯ck You。しょうがない。落ちてしまったなら下に取りに行こう。

 このアパートの外は、夜になるととても暗い。階段を降りるときなんかも、ほぼ感覚だけで暗闇の中を進まなければならない。その辺にある外灯の明かりは頼りにならない。少し先の大通りの車の音だけが聞こえてくる。

 私のTシャツが落ちているアパートのほんの小さな裏庭?のようなものに入るため、私は裏手にまわった。ガチャリ、といつも鍵が開きっぱなしの柵を開ける。裏庭?は一階の各部屋の窓の真ん前とそのままつながっている、なんとなく勝手に忍び入ってるような後ろめたい気がして、足音を殺して入っていった。

 一面黒の静寂の中、Tシャツをなんとか回収した。さぁ戻ろう。

「いやははははははは」

 うっっっっっわ。背筋に緊張が走る。セイラさんに見られたらそれでも男ですかと頬を張られそうなくらいみっともない驚き方をしてしまった。

「くふふふふふふふ」

 今日も笑っている。愉快なもんだな、おい。私をビビらせておいて。

「こほほほほほほ」

 いいさ、せっかくだからちょっとくらい覗いてやろう。私は最近の疑問をようやく解決できるのだという高揚感と、他人の部屋を盗み見るという緊張感で、よくわからないテンションになっていた。さぁ、いざ。

「ひいっ、ひいっ、はっはっ、はっ」

 誰もいない真っ暗な部屋で、お笑い番組だけがテレビに映っていた。

「んっはっはっはっは」

 なんか、なんかこわ

「あははは」

い。私は足早にその

「なはははははは」

場を去った。

 階段をわざと騒がしく駆け上がり、ドアノブを荒々しくまわした。

 部屋の中は安全地帯だろうと思った。別に何も危険な目に遭ったわけではないのに。深く息を吐いた。

 ドラえもんの歌をそこそこの声量で歌いながら居間に戻ると、テレビがついていた。

 テレビがついていた。

 テレビがついていた?

 お笑い番組が流れている。

「がっはっはっはっは」