バケツとバスタオルと教科書と②

 初めましての方は初めまして。そうでない方はこんちゃ。コムです。

 前回、先生からの質問に間違えて答えた生徒と教室の床が水浸しになったっていうところで終わりましたね。実は、生徒は濡れてません。それどころか、そいつの机の上の教科書も濡れてません。そいつは先生が桶で水を汲んでかけるまでのほんの数秒で、洗練された動きで教科書を机の中にしまい、机に持ってきたバスタオルをかけ、自分自身はこれまた持ってきたレインコートを盾にして水を防いでいたのです。

 というか周りを見渡すと、同じようにしていたのはそいつだけではありませんでした。みんな水が飛び散って自分も巻き添えを食らうことを恐れ、同じように防御していたのです。なんだこの気持ち悪い集団、、、。と思い手元を見ると、私の教科書は濡れていました。

 その授業で水をかけられる危険性のあるタイミング、つまり先生に質問されるタイミングは二つあって、一つはあくびをしたり授業中のルールを違反したとき、もう一つは宿題の答え合わせで自分の担当を間違えたときです。前者は気をつけていればどうにかなるのですが、後者は毎授業回ってくるものなので、完全に避けられるものではありません。しかし、間違えるリスクを減らすことはできます。

 まず、宿題の答え合わせの担当は、前回授業の小テストの順位の下から順にあてられます。つまり、小テストの結果が良いほど間違える可能性のある機会が減り、問題数によっては担当しない者まで出てきます。そのため、生徒はみな死にもの狂いで勉強しました。

 次に、宿題の答え合わせの担当に選ばれた者たちが宿題のどこを担当するかは早い者勝ちで、先生が黒板に書いた設問番号の下にいち早く自分の名前を書いた者が担当します。つまり簡単で間違えにくい問題は早い者勝ちなのです。そのため、先生が設問番号を黒板に書き終えた瞬間生徒たちは席を立ちあがって黒板の前まで走り込み、押し合い圧し合いながらなんとか簡単な問題を取ろうとします。

 こんな異様な環境ですから、生徒間では奇妙な連帯感が生まれ(今思えば宗教染みていますが)、協力して勉強に励むようになります。しかし、なれ合いはしません。競争の中で自己を防衛しなくてはなりませんから。水をかけられるのは嫌なのでみな避けようとしますが、先生と、仲間と、そのスリリングでにぎやかな授業を笑顔で真剣に楽しんでいました。先生の知識量が膨大で、水をかけることなど抜きにしても、十分畏怖し、尊敬するに足りえる存在だったこともそのような授業が成立していた要因として大きかったと思います。

 他にも、国語の先生は宿題を友達に写させたやつ、写したやつを出禁にしようとしたりと、この塾はクレームへの恐れというものを知らなかったように感じます。数学を担当する塾長が基本的に保護者対応やらいわゆるビジネスとしての面は対応していましたが、この塾長も不思議な人で、福島のなまりと飄々とした話しぶりで、捉えどころのない、けれどもどこか温かい人でした。

 このご時世、なんでこんな塾が許されているのかは正直謎です。しかし、一つ確かだったのは、塾側と生徒・保護者側との信頼関係があったということです。というかそれが無かったらとっくに裁判沙汰になってます(もしかしたら経験済みかもしれませんが)。塾は、生徒のことも、保護者のことも、なめていませんでした。先生も生徒も互いにしっかりと向き合っていました。私は塾でバイトをするようになって、生徒や保護者の悪口を裏で言ったり、その場にいる生徒自身よりもビジネスを取ったりという場面を見てきましたし、私のバイト先以外でもそのようなことが見られるということはなんとなく知っています。もちろんビジネスだから仕方ないですよ?私の思い出補正もあると思いますよ?現在あの塾がどうなってるかもわかりませんよ?でも、私は少なくとも、こんな塾がどうして成立していたのかをいうことを考えることは価値があると思います。

 私はあの塾に入ってよかったです(そりゃ生徒に水かけるなんてどうかしてるとは思いますが)。そして、現代の価値観からすると歪んでいるように見えつつもその実まっすぐに経営されていたあの塾のことを、手放しに賛美することなんてないにしても、忘れはしないようにしようと思います。これが私のルーツの一つです。駄文錬成終わり!